さんは時計が嫌いだった。
よほど細工が繊細なアンティークものの置き時計か、
百歩譲っても小さな懐中時計以外は視界の端に映り込むのでさえ嫌がっていた。
(それでも大体の時間が分かるのは体内時計のおかげらしい)
(日頃の規則正しい生活の賜物だ)

だから彼女が僕の部屋を訪れる日は、部屋中の時計を全て隠してしまわなければならない。


「ごめんね。面倒でしょう」
「どうってことないですよ、これくらい」
「それでもやっぱり、どうしても好きにはなれないの」
「時計ですか?」
「そう」


さんは時計が嫌いだった。
正確に言えば、原動力さえあれば半永久的に動き続けるその二本の針が嫌いだった。

そんな間違った考えなんて早く捨ててしまえば良いのに、
彼女は教団の大聖堂で焼かれていった白い棺の数を
自分の目の前で死んでいった人たちの数と混同してしまっている。


『思い知らされる…自分だけがあれから、のうのうと生きているってこと』


以前、時計を嫌う理由を訊ねたときに返ってきた彼女の言い分がこうだった。
いつもはやわらかい空気をまとうさんが、
鋭い目つきで、けれど悲しそうに、
ぽつりぽつりと呟くように散りばめた後悔と苦しみの響き。


はじめて自分の目の前で誰かが死んだそのときから、
さんの中にある時計は少しずつ少しずつおかしくなってしまって、
遂にはそのまま時を止めてしまったんじゃないかって思う。
何度も繰り返し目の当たりにしてきた現実は、
繊細な彼女の心を干涸らびさせてしまうには充分だったんだ。


「…可愛くない女でごめんなさいね」
さんは可愛いですよ」


可愛くないのは嘘ばかりの、その口です。

「ごめんなさい」と呟いたさんの顔が、またあの時の顔に戻った気がして。
口の中でぼそりと唱えた僕の言葉に「え?」と顔を上げたさんを腕の中に閉じ込めた。


「…えっ。あ、アレン、君……?」

「すぐにじゃなくても良いんです。
 生きていれば、生きてさえいれば、時間はたくさんあるんですよ。
 だからさん。少しずつで良いから、時を、時計を、好きになってくれませんか」


僕は時計が嫌いじゃないから、あなたの手を引いてあげるくらいのことは出来る。
だからこれからはどうか一緒に。

楽しく生きて笑うあなたを、僕は見たい。





009,時計の針





抱きしめた腕を少しだけ緩めて、額をくっつけて囁いた彼のその微笑みに
苦痛の中で生きてきた彼女の時計の針が止まった。








2006/06/19
二人の時計が動き出した。