部屋から人の気配が消えて、それでようやく肩の力が抜けた。
こわばる身体を両腕で抱きしめる。
そのまま深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けると、改めて自分の置かれた状況を確認してみた。


篭手や胸当ては外され、腰に差していた愛刀も護身用の短刀もなくなっていたが、
身体のあちこちに負っていた怪我はどれも丁寧に手当てされていた。
その場で軽く手足を動かしてみると、痛みはあるものの動き自体は特に問題ない。
骨を折っていなくて良かった、と安堵の息を吐いた。

顔を上げて、今度は辺りを見回してみる。
改めて見ると思ったより広い部屋だった。隅に置かれた蝋燭の火が小さく揺らめく。
三方は壁に囲まれ、細い通路に面した一面にだけ格子が嵌められている。
唯一の出入り口にはきっちりと鉄の錠が掛かっていた。
地下のようにも思えたが、天井近くの壁にある小さな窓からは月明かりが差し込んでいた。
どうやらここは座敷牢かそれに類する部屋らしい。


ひとしきり観察を終えたところで視線を正面へと戻す。
目の前にはお膳に並べられた幾つかの碗。
こんな部屋には似つかわしくない綺麗な朱塗りの箸がきちんと添えられている。
あの忍が出て行ったあと、入れ替わりに入ってきた女中さんらしき人が置いていったものだ。
「どうぞお召し上がりください」と丁寧に一礼もされた。
独眼竜の妻という立場は、どうやら十分すぎるほど尊重されているらしかった。

あれから、どれくらい経ったんだろう。
せめてここがどこなのか知りたかったが、今の私には知りようもなかった。

どうにもならないもどかしさに溜め息を吐くと、それとほぼ同時に人が戻ってくる気配がした。
反射的に壁際に後ずさって身を固くする。


「…あれ、食べてないの。食事」


ひょい、と格子越しに顔を覗かせたのはあの橙色の髪の忍だった。
私が警戒している様子に気付くと「毒なんて入っちゃいないよ」と苦笑する。


「起きたばっかりで欲しくないかもしれないけど、出来るだけ食べてくれないかな〜、なんて。
 それ以上細くなったら見てるこっちが心配だし」


軽い調子で言いながら微笑む。それでも動こうとしない私に男はふぅと息を吐いて、
懐から取り出した鍵で錠を外すと部屋に足を踏み入れてきた。
何をする気なのかと身構えていると、いつの間に持ってきていたのか
傍らからお盆に乗せた急須を取り出して膳の上に置かれていた湯飲みに手を伸ばす。
…どうやらお茶を淹れなおしてくれるつもりらしい。

あたためた湯飲みにお茶を注ぐ仕草は、とても忍とは思えないくらい繊細だった。
静かな音と薄い湯気が部屋に満ちていく。
注ぎ終わった湯飲みを膳の上にそっと戻した彼は、それ以上は私に近付こうとせず
もう一度だけ小さく笑って部屋を出た。もちろん鍵を掛けることは忘れずに。


「何かあったら遠慮なく言って。
 お姫さんが不自由することがないようにって、お館様からのお言葉もあるからね」


そのまま通路の向こう側へと立ち去ろうとしたが、
何を思ったのか、その場で急に足を止めて私に背中を向けたまま、


「…猿飛佐助」
「……え…」
「お姫さんの世話係兼監視役で、あんたをここまで連れてきた男の名前だ」


さっきより低くなった気のする声で言い放つと、今度こそ本当に通路の向こうへ消えてしまった。
残されたのは手付かずのままの膳、湯気を立てるお茶、身動きの取れない私。
忍の気配が離れていったのを確認して、そろそろと壁から離れる。
少し迷ってから湯飲みに手を伸ばした。
そっと口を付ける。乾ききった喉を熱いお茶がするりと通り抜けていく。

…彼が、あの真田幸村に付き従うという忍。
奥州にまで届いてくる武勇伝から想像していた姿との違いに、今さら少し驚いた。

まだ半分以上は中身が残っている湯飲みを静かに置いた。
これ以上は何も口にできそうになかった。顔を上げ、月明かりの差し込む小さな窓を見上げる。
今にも折れてしまいそうなほどに細い三日月がやけに遠く見えた。


「…政宗……」


自然とその名前がこぼれた。
壁に背を預けて、膝を抱えた腕に力を込める。

私の夫。私の、愛するひと。


―――私の半身に、ひどく、会いたい。










2008/03/13