人払いを済ませた陣幕の中は昨日までの戦が嘘のように静まりかえっていた。 篝火の燃える音さえ耳につく静寂の中で、もう何度目か分からない衝動が体を襲う。 ギリっと奥歯を噛み、唇を噛みしめることでどうにかその感覚をやり過ごす。 錆びた鉄の味が口の中に充満していた。 じっと見つめる篝火の炎によみがえる、あのときの光景。 「shitッ…敵の様子は!?」 「っすでにこちらにまで回り込まれて…! 迂闊でした、まさか挟み撃ちだったとは」 「申し上げます!先ほど、前線がついに突破されたと連絡が!」 「このままでは追いつかれるのは時間の問題です!」 まさに予想外の出来事だった。 順調に武田軍を攻めていた、その最中の突然の奇襲。 地形的に進軍は難しいと思われていた場所から現れた武田の別働隊による攻撃に、 俺の軍はたいした抵抗もできないまま後退を余儀なくされた。 いつもなら俺と小十郎は前線に出ているはずだったが、今回はあの武田との戦ということを考え、 相手の出方を窺いながら攻めようと進軍の中心あたりにいたのがせめてもの救いだった。 知らせを聞き、すでに乱戦となっているはずの前線に指示を出しながら本陣に下がる。 だが、そこまで敵も甘くない。 激しさを増す追撃に不穏な空気があたりを包み出した、そのときだった。 「―――私が行きます」 「……What?」 「政宗、あなたは兵を連れてこのまま本陣に戻って。小十郎は政宗と一緒に兵の統率を」 「様、何を!!」 「今は私が一番身軽だわ。それにこんな状況よ、大将自らが率いた方が兵は動く」 「…っしかし!」 必死に抗議を続ける小十郎の声を聞きながら、俺は迷っていた。 『奥州筆頭』としての自分なら、ここはの申し出を受け入れるべきだった。 このまま逃げたところで追いつかれるのは時間の問題。 もちろんそう簡単に首を渡してやるつもりはない。 だが兵が浮き足立っている以上、勢いに乗っている敵に無用な犠牲を出さない自信はなかった。 だが、『の夫』としての自分はどうだ? ここは戦場。甘えも希望も、彼女を必ず守ってやれるものなんざどこにもない。 …そんな中に、愛する女を置いていけるわけが、ない。 口を開こうとすると、すぐ横から俺の顔に白い手が伸ばされた。 唇に何かが触れる。あたたかく、やわらかい感触。 「……お願い。行って」 刹那の口付け。 それがの決意だということは、俺にも小十郎にもよく分かった。 「小十郎、私の旦那さんの背中をしっかり守ってあげてね」 「…はっ。この小十郎、必ず」 「政宗、一人でも多くの兵を生かして。ここを凌げば私たちの勝ちだわ」 「HA! 当然だ。…お前も、ぜってぇ死ぬんじゃねぇぞ」 もちろんよ、と笑っては手綱を引く。 高々と前脚を上げた彼女の愛馬は今にも駆けだしそうな勢いで地面を掻いた。 「我らが筆頭、どうぞご武運を」 ―――それが、の姿を見た最後だった。 あのとき、その腕を掴んで「行くな」と言っていれば。 腕の中に抱きしめて、無理やりにでも傍に置いて連れてきておけば。 の視線、の声、の微笑み。 いつもは手を伸ばせば届く場所にあった俺の大事なものは、 今や手を伸ばして触れるどころか、その居場所も、ましてや生死さえも分からない。 「……Demitっ!!!」 思わず頭の兜を引っつかみ、地面に思いきり叩きつけた。 力任せに投げた兜が鈍い音を立てて地面に転がる。 前にが好きだと笑った金色の三日月。今はもう、その笑顔はあまりにも遠い。 これは悪夢だ。 力任せに噛みしめた唇から再び血が流れ出した。 その痛みに、いま目の前にある事実は覚めることがない現実だと分かっていながら、 俺は子供の一つ覚えのように悪夢だ、悪夢だと繰り返していた。 2008/12/12 |