どこからか自分の名を呼ぶ声が聞こえる。 浅いまどろみの中をゆらゆらと彷徨っていた白哉は、 それでもその声の主がはっきりと分かっていた。 昨夜眠りに落ちるまで、確かに隣にあったはずのぬくもりがなくなっている。 「身体を冷やすから」と、何度たしなめても朝の散歩をやめない彼女の声を聞きながら、 手近な上着を羽織ってあたたかい布団を抜け出す。 そのまま障子を開ければ思った通り、冷たい空気が頬を掠めた。 数日前にくらべて日差しはいくらかあたたかいし、 素足を刺す冷たさも和らいではいたが、それでもやはり寒いものは寒い。 寝室に残されたままだった彼女の上着を片手に、廊下から辺りを見渡してみると、 白哉さま、と庭の奥から小走りに駆けてくるの姿が見えた。 「おはようございます」 駆け寄ってくるなり、そうにっこりと微笑むから。 説教の一つもこぼすはずだった彼の口は簡単に閉じてしまう。 「ごめんなさい、起こしてしまったでしょう?」 「…構わない。どうした?」 訊ねながら、持ってきた上着をそっと掛けてやるとは嬉しそうに、 しかしいくらか申し訳なさそうに頭を下げた。 不思議に思って頬に触れてみれば、なるほどかなり冷たい。 だから上着は手放すなと言っていたのに。 軽く咎めるような白哉の視線に気付いたのだろう。 叱られた子供のように首を縮こませたは、それでもかすかな微笑みを浮かべたまま、 「見てください」と、奥にある木の一本を指さす。 「ようやく一つ、咲いたんですよ」 そういう彼女の指の先には、形の良い花びらを太陽へと向ける桜の花が、 逆光の中で鮮やかに浮かび上がっていた。 「…今年は少し遅かったな」 「私はまだもう少し掛かると思っておりました。寒い日も続いていることですし。 ですが、いらぬ心配だったようですね」 そう微笑む彼女の言うとおり。 つい先日うぐいすが鳴いたと思っていたら、いつの間にか梅の花びらは穏やかな風に散り、 かわりに鮮やかなスミレの紫が小道に溢れた。 この分だと、こうして上着を持ち歩かなくても良い日々は早々に訪れそうだ。 「…白哉さま」 ふいにが隣にある白哉の袖に指を絡めた。 まだ身体が冷えているのか、それは少しばかり手を添える程度のものだったけれど。 「私はやはり、春が好きです」 一つだけ蕾の開いた桜に愛おしそうに目を細め、袖の裾を掴む指にそっと力を込める。 「だって」と、続ける唇の形を横目で追いながら、 白哉はが続けようとする言葉の先が分かっていた。 だって彼女は初めて共に過ごした、今は遠いあの春の日にもこう言ったのだ。 「春は、貴方さまの刀の名ですもの」 072,春
が形になったなら (それはきっと、あなた) 2005/09/26 桜の花言葉は「優れた美人」、「精神美」だそうで。 白哉と一緒に花を愛でたい。 |