(月に隠れた蝶が こちらを見ている)
「……白哉…―――蝶、が」 うわごとのように、かすかにの唇が動くのを見て、開け放していた丸窓へと視線を移した。 切り取られた庭の中には端がわずかに欠けた月と散り始めた桜の枝。 そしてどこから迷い込んできたのか、黒い羽根の迷い蝶が一匹。 「こっちを、見てる…」 「……見せておけば良い」 呟くようにそう囁いて、その華奢な首筋に顔を埋めた。 小さく声が上がったが手は止めなかった。 そのまま彼女に覆いかぶさるように抱きしめ、床に伸びた指を絡め取る。 軽く酒にでも酔っているような気分だった。 ぼんやりとした思考は意識しなければ絡めた指の力を加減することもできず、 瞬きを繰り返す視界は月の光も手伝ってか、見ているものの輪郭さえぼやけてしまう。 それでも闇に紛れた、密やかな行為は終わらない。 丸窓から差し込む月明かりはやわらかく室内へ降り注いでいた。 桜の花びらの先にとまった蝶は相変わらずこちらを見ている。 静かに動く羽根を視界の隅に認めながら、彼女に口付けようと顔を寄せると、 今までされるがままだったが確かな形で抵抗を示した。 「だ、め……いや」 「何故だ」 「誓いに、なってしまう」 「…構わぬ」 いやいやと駄々をこねる赤子のように首を横に振る。 散らばった黒髪が衣擦れのような音を立てて、彼女の意志を明確にしていた。 「私は、これから生きていく人の何かに、なりたくはないの…っ」 漏れた言葉がぼんやりと機能していただけの鼓膜を揺るがす。 酔っていた思考が少しだけ醒めた、気がした。 仕事中に体調を崩して倒れた彼女が、それより少し前からかかっていた医者に 薬の服用と室内での安静を義務づけられたあの日から。 「病が感染ってはいけないから」と、 がやんわり口付けを拒んだ過去のあの日から、どれだけの月日が流れただろう。 時間は瞬きをする間にも確実に流れていて、自分は確かにそれを理解していた。 「愛を語ることも…誓いを残すことさえ、お前は躊躇うのか」 理解していただけで、自分はその事実を認めなかった。 ただ、それだけのこと。 「私がお前に恋焦がれているという、この事実さえ…お前は拒むというのか」 終わりが分かっている幸福と、想いが届かない苦痛。 どちらの選択が正しいものなのかは分からない。 ただ、しだいに熱を帯びていくこの身体を支配していたのは、 『が好きだ』という、至極単純で、それゆえに深い想いだけだった。 「―――…愛、している……」
04,月光蝶
2006/02/13 |