高い空。薄い雲。美しい自由。 飛べない鳥は何を望む?
12, 飛べない鳥
足音がする。 ひたひた、ひたひたと まるで何かから隠れるように。少しだけ怯えるように。 次いで鍵の開く音と、鉄同時が擦れるような重い音。 最後に襖が開いたのが気配で分かった。緩慢な動きでは首を傾ける。 その頬に、すっと添えられる冷たい指。 「…今帰った。」 簡潔で沈んだ声を滲ませる彼は、少しだけ血の香りをまとっていた。 戦明けはいつもこう。 仕方のないことだと分かってはいても、なんとかその声をいつもの調子に戻したくて、 は「おかえりなさいませ」と出来るだけやさしく囁く。 それには応えず、冷たい指はの頬から髪の後ろへと動く。 しゅるりと音を立てて細い帯が畳へと落ちた。 「…痛むか」 「いいえ、大丈夫です」 「何か、変わったことは」 「特には御座いませんよ」 「…、」 「はい」 「俺は、誰だ?」 「―――…私の愛する、政宗さまです」 暴かれた目隠しの下の傷を隠そうともしないで、はただ微笑んだ。 伊達家の正妻であり、伊達軍の女武将でもあった。 その彼女が戦によって両眼を失った一年ほど前から、政宗は変わった。 元から独占欲は人一倍強いほうだったが、 いつの間にか、そんな言葉では済まされないほど彼の心は壊されてしまっていた。 城の最上階に新しく用意された広い一室。 それが眼を失ったの新しい世界であり、すべてだった。 窓には格子。入り口には鉄製の鍵。 彼女が好きだった小鳥たちすらも入っては来れないその部屋に、 言葉や温もりを交わすために立ち入ることが出来るのは、夫の政宗だけ。 見える世界を失ったの目に、政宗の左目がなった。 咲き誇る庭の花や新しい着物の柄、作らせた簪の色を政宗がすべて言葉にして伝える。 指を導いて形を知らせ、顔を近づけて香りを教えた。 二人で一つの眼を共有するような毎日。 その役目と日々を、彼は決して他人には譲らなかった。 逃げようと思えば逃げられた。 家臣はみんな心配していたし、小十郎に至っては壁越しではあったが、 政宗の目を盗んでは何度もを訪ねた。 しかし、自身は決してそれを望みはしなかった。 『ここは風が心地良いし、格子の影は温度に変化があって面白いのよ』 そう言っては、悲痛な声で抗議する小十郎にそっと笑い掛けた。 虚勢ではなかった。 むしろ、彼女の口から出る言葉はとても穏やかだった。 本当に、心から彼女は、 「今年は八重桜が綺麗に咲いた。This…分かるか」 「ええ。去年よりも早かったんですね、少し小ぶりな気がします」 「また花見でもしような。枝を手折ってきて、酒を用意して。重箱は俺が詰めて来てやる」 「まぁ嬉しい! でもお酒は程々にして下さいね」 政宗は、きっと怖がっている。 はそれをきちんと分かっていた。 眼を失うことがどういうことか、失った後に思うのはどういうことか。 見えない視界がもたらす闇が、互いの心の距離を離してしまうのではないかと。 そんなことがあるはずがない。 目を失って、世界を失って、自由さえ失った今でもは幸福だった。 今まで以上に自分を愛してくれる政宗を、今まで以上に愛した。 「……?」 「どうなさいましたか、政宗さま」 「、」 「はい。何でしょう?」 「どうして、泣くんだ」 え、と思わず聞き返した声は掠れた嗚咽に埋もれた。 驚いて手をやる。目元に走る傷の間から、生暖かい涙が指先に触れた。 「どっか痛むのか!? それとも…」 「いいえ、いいえ…ごめんなさい、どうしてでしょう。 悲しくも何ともないのに、なぜか、溢れて止まらないのです」 「………」 「……大丈夫、大丈夫です。ねぇ、政宗さま、我が侭を一つだけ。 どうか、しばらく…抱きしめていてはもらえませんか」 高い空。薄い雲。美しい自由。 飛べない鳥は何を望む? 見える世界を失った籠の鳥は空を望まず、愛しい者の青に焦がれた。 2006/12/26 (それでも、籠の鳥が本当に焦がれたのは、 ) |