ふいに人の気配がしたから振り返っただけ。
それだけ、だったのに。


「奇遇やねぇ」


聞き慣れたその声がゆらゆら揺れる水面に吸い込まれた瞬間、
私はきっとひどい顔をしていたと思う。

ひらり、ひらり。
ともすれば優雅にも思える動きで手を振る彼が、偶然を語ることなどお手の物だと、
これまでの経験から嫌というほどに知っていたから。


「…市丸隊長、」
「ギンでええよ?」
「……先程、吉良副隊長が必死になって隊舎を探し回っておられましたが」
「あれ、それは気付かんかったわ」


もとから細い目を一層細めてそんな台詞を言われても、説得力は皆無に等しい。
それをこの人は承知のうえでやってのけるのだから、タチが悪いというか何というか。


「へぇ、鯉やね」


こんな近距離にいる私の溜め息が聞こえないはずがないのに、
市丸隊長は薄い唇を三日月に曲げて池をのぞき込む。
陽が沈む間際、赤い陽光を反射する水面近くを色とりどりの鯉が泳ぎ回る様子は、
まるで豪奢な着物の柄のようだった。


三番隊の執務室から少し離れたこの中庭は、こっそり休憩するには絶好の場所だった。
この時間帯は人通りも少ないし、今の時期は植木の花もきれいだから、
最近は小さく砕いた麩を片手に訪ねることが楽しみの一つになっていたのだけれど、
まさか、こんなにも早く見つかってしまうとは。


「…頂戴」
「はい?」
「ソレ。一つ頂戴?」


突然そう言って、ちょいちょいと指を伸ばす。
そんな市丸隊長の行動にほんの少しだけ戸惑いながらも、
大きく広げられた彼の掌の上に大きめの麩を二つ三つ乗せる。

満足そうに笑った彼は池の縁に腰を屈め、
男性特有の長い指で麩を一つ一つ水面へと落としていく。
それを早速見つけたらしい赤い鯉が泳ぎながら器用に口を開くのを見て、
可愛いらしなァ、といつもの掴み所のない笑顔を浮かべた。


「折角やし、一つはボクが食べてもええ?」
「…また突拍子もないことを…」
「別にええやろ、減るもんやないし」
「減りますよ、この子たちの食事なんですから」


どうしてこの人はいつも突拍子もないことを言い出すのだろう。
抗議はしてみるものの、それで彼が素直に頷くとは夢にも思えない。
口には出せない思いを込めて視線を送ると、ふいに彼の細い目と視線が合った。


「…だって」


かすかな目の動きが、私を捕らえて、



「ボクがどんなに周りを泳ぎ回ったって、チャンは何もくれへんやん」



……ああ。
これだから私は、この市丸ギンという人物が嫌いになりきれないのだ。

「な?」と笑う彼に諦め半分、呆れ半分で、
仕方なしに袖に忍ばせていた飴玉を一つだけ口に放り込んでやった。





035,そぅっと覗いて
みてごらん
(気付いてほしくてあなたの傍を泳いでる僕)





「そういえば、なんかこんな歌があったねェ」
「歌、ですか」
「そうそう、たしか鯉が学校に行ったりする」
「…それはめだかの歌ですよ」
「そうやったっけ?」


飴を頬張る二人のいる池の側まで、
イヅルの悲痛な声が響いてくるのは、もう少し先の話。










2005/08/31