コツコツ、控えめな音がする。 マスターがきれいに整えられた爪の先でキーボードの端をたたく音。 考え事をしているときの、彼女の癖。 『ここは半音上げようかな、それともそのままが良いかな』 「どっちも良いと思いますよ。落ち着いた曲だから、あまり上下しなくても良いんじゃないかな」 会話の間も、部屋に響いているのはコツコツという音だけ。 僕たちの会話に声のやりとりはない。 機会と人間という関係の僕たちはコンピュータを通して言葉を交わす。 それで充分だし、それ以上のものが僕たちの間にあり得ないことも分かっている。 さんは、声が出せない。 理由は知らない。 けれど、僕が彼女の家にやってきて、彼女が僕のマスターになったとき、 さんはすでに声を失っていた。 『あなたが、わたしの代わりに歌ってくれるのね』 はじめましてのかわりに彼女が唇の動きだけで言ったその言葉を、 僕は今でもはっきりと覚えている。 『うーん、やっぱりここは上げよう!』 「あ、決まりましたね」 『サビを盛り上げて、他の部分を今よりもう少し抑えようと思うの』 「楽しみだな。メロディアスな仕上がりになりますね、きっと」 『せっかく涼やかで伸びのある声だもの。カイトのいいところ、たくさん生かしたい』 どきっと、した。 さんの言葉は機械の僕ですら簡単に喜ばせる。 そしてそのたびに、僕は彼女の言葉を音声として聞いてみたいと、そう思うのだ。
僕
の
歌
を
君
に
「マスターのためなら、僕はどんな歌でもうたいます。僕のすべてで」 2010/07/12 あなたのかわりに、ぼくがうたう。 |