キッチンに立つさんが僕の知らない歌をハミングしていて、
それで僕は彼女の中に新しい曲が生まれていることを知る。

さんは夕飯の準備中。
あたたかそうな湯気をたてるシチューのお鍋をかき混ぜながら、
ふんふんと鼻歌をうたうさんはとても楽しそうで、
ソファに座って彼女の背中を見ている僕までなんだか楽しい気持ちになる。


さんは作曲に紙やペンを使わない。
この部屋には音楽が好きな彼女のためのピアノも置いてあるのだけれど、
学校の課題やたまの息抜き以外でさんがピアノを弾くところを見たことはなかった。

今日のように知らない歌のハミングが聞こえてきたら、
それはさんが僕のための曲を作っている合図。
新しい曲だよ、と教えてくれるころにはもうすっかり曲が出来上がっている。


歌うために生まれてきた僕にとって、どんな曲でもそれはとても大切なもの。
けれど、むりやり生み出そうと苦労して出来上がった曲よりも、
マスターの中に自然に生まれてきた曲を歌えることが、僕はとても嬉しい。


きっともうすぐおいしいシチューができあがる。
そうしたらさんはいつものとおり二人分の食器を並べて「ごはんだよ」って笑いかけて、
それを合図に僕は二人分のお茶を用意して、二人で「いただきます」を言うだろう。
昨日見たテレビの話や今日の天気のことや明日の予定を話すその前に、
「新曲ができたんだよ」って、彼女が笑ってくれますように。





ト音記号の産声








2007/04/07