私がその日覚えておく死体はひとつきりで良いはずだった。
徳川家康という男の死体、ひとつきりで。



壮絶な戦いの果てに倒れた、もう動かない、黄色い上着の背中を見つめたあと、
私はこの戦が始まって初めて後ろを振り返った。
いつもそこにいて、私の背を守っていたはずの彼女の姿を求めて。


「主をかばったのよ」


驚いた顔をしていたのだろう。
いつの間に側に来ていたのか、別陣を守っていたはずの荊部が近付いてきて言った。
包帯の間から覗くその両眼は珍しく悲痛な色を湛えているように見えた。
いや、今はそんなことはどうでもいい。

彼女が、庇った? 誰を?


「主の部隊が本田忠一に足止めされている隙を狙うとは、独眼竜はよほど主が憎かったと見える。
それを女に邪魔されるとはな。今頃かの竜の腸は煮えくり返っていることであろうよ」


この耳がかろうじて言葉を拾ったのはそこまでだった。
体が倒れる前に足を一歩踏み出し、二歩踏み出し、気付いたときには走り出していた。
走るのをやめれば倒れることが分かっていた。
家康の首に辿り着くまでに自分が積み上げた骸の道を、ただただ走った。




という女について私が知っていることは少ない。
もともとは半兵衛様の部下で右腕のような存在だったこと、
女ながらに目を見張る刀捌きを見せていたこと、
小さいが涼やかで耳ざわりのいい声をしていたこと。

半兵衛様を病で、秀吉様を戦で失い、
西軍の総大将となった私に、いつしかは付き従うようになった。
部下など必要ないと吐き捨てる私のそばから、それでもは離れなかった。
そんな彼女を煩わしいと思いこそすれ拒まなかったのは、
主を失った者同士の傷の舐めあいのような、そんな陳腐な理由ではない。
それが当然の行動だと思ったからだ。

秀吉様亡き今、この私を守ることは、秀吉様の威光を守るということだ。
半兵衛様の育て上げた兵を守るということだ。
事実、はよく働いた。
戦場に出れば一人で何人もの敵兵を斬り殺し、危険な仕事も面倒な仕事もいつも黙って引き受けた。
どんなに不利な戦況でも、は必ず帰ってきた。


すべてを失ったその後でさえも私のそばにいた彼女だけは、
私の傍らから永遠に離れないような、そんな気がしていた。



骸の道の真ん中で、は息絶えていた。
走ってきたせいで息が乱れていた。一歩前に進むごとに、息の乱れは大きくなる。
邪魔な刀を放り投げ、手を伸ばして抱き起こした体は驚くほどに軽く、思わず支える手に力を込めた。
長い黒髪が泥にまみれ、青白い肌は血と泥水で汚れていたが、
それは紛れもなくだった。


「……起きろ」


こうして声に出して命じれば、どんなに生死の縁をさまよっていても目を開けるはずだった。
彼女が自分の命令に従わなかったことなどなかったのだから。


「目を、開けろ」


思えばこうして自分から彼女の姿を求めたのは初めてだった。
探さなくとも、振り返れば、彼女はいつもそこにいた。



「  」



その名前を呟いた後に堪えきれなかった叫びは、また自分の望む者には届かない。






慟哭
(また私を置いて逝くのか)








2012/11/13
1年近くあたためていたお話。