あの日、あの時、あの瞬間から、
貴女にこれ以上のものはないと思ったのです。






べにさしゆび






「…えっと、ひとまずお話は分かりました」
「本当ですか! それは嬉しいです」
「ですが、あなた様の意図は全く分かりません。申し訳ありませんが」


そうが眉をひそめるのも無理はない。
庭で剣の稽古をしている最中、突然やってきた光秀に両手をぎゅっと掴まれたかと思うと、
無邪気な子供のように目を輝かせた彼から一方的に同意の言葉を求められた。
それも、には話の前後が一切分かっていない事柄の同意を、だ。
そんな状況できちんとした会話が成り立つ方がおかしい。


「ああそんな。は私を困らせたいのですか?」
「お言葉ですが、それはこちらの台詞です。
 せめて順を追って話してください。話の前後が見えないのですけれど」
「なんだ、そんなことですか」


一瞬崩れかけた微笑みも、が続ける言葉を聞くやいなや、
あっという間に持ち直した光秀には心の中だけで溜め息をついた。
「だからそこが抜けたら会話にならないでしょう」と突っ込むのも躊躇われて、
は軽い頭痛をおぼえながらも腹を括る。

だめだ、こうなったら黙って最後まで聞いたほうがいい。


「先日、戦の折に唇を切ったでしょう」
「…見ていらっしゃったんですか」
「貴女が自分の血を流すことは珍しいですから」


失態を見られていた。
そう思うと情けなかったが、それと同時に気恥ずかしかった。

血を流したとは言っても、敵の刀を避けたときに思わず噛んでしまった程度だ。
少し着物を汚してしまったが、舐めればすぐに止まったし。
けれどそんな自分に気付かれていたかと思うと、妙に胸の辺りがくすぐったかった。
彼が誰かに気を掛けるのは珍しい。それが戦場となれば尚のこと。


「だから、これを」


そう低い声が近付いたと思うと、ふいに唇にひやりとした何かが触れた。
緩慢な動きで横に動かされる。

声を上げる暇もなかった。
が抵抗しないのを良いことに、光秀はその長い指で彼女の顎を掴むと、
もう片方の指で驚きの形を作っているの唇をなぞる。
ゆっくり、ゆっくり。

時折贈られる口付けよりも艶かしい光秀の仕草に、自然との頬に熱が集まった。
身を捩ろうにも、しっかりと自分を捕らえる指はそれを許さない。


「…ああ、やはり思ったとおりだ」


くすり、と微笑んでようやく彼女を解放した光秀は
鮮やかな赤に染まった小指を胸に当てて、幸せそうに息を吐いた。



「貴女の唇にはそれぐらいの紅が良く似合う。これ以上の色は、貴女にはない」



その唇には深いあかを。
貴女が美しく在るがために。








2007/01/06