野良犬の遠吠え





「………ない…」

「はい、残念でした」
「だ―――っ!! また負けた!」


約30分ほど前とまったく同じ叫び声を上げて、恋次はその場にひっくり返った。
叫び声の原因は盤上に並んだ黒と白の陣地取りゲームの勝敗。
あいわらず恋次は囲碁が弱い。
将棋ならばそこそこ強いのに、囲碁となると大抵私が勝ってしまう。


「まぁ今回は惜しかったわね。さっきの所、左下に置かれてたらちょっと危なかった」
「それでも俺が負けるっていう結果は変わらなかっただろうけどよ…」


負けず嫌いの恋次はこれまで三回連続で私に負けたのが相当くやしいのか、
寝転がったその場から身体を起こそうとしない。
その体勢のまま器用に腕を伸ばして、側にあった座布団を手元に引っ張り寄せる。
どうやらそれを枕にふて寝を決め込むつもりらしい。

もう夕方よ、と軽く咎めようとしたけれど、
久々の非番ぐらい彼の好きにさせてあげようかと思い直した。
夕飯まではまだ時間があるから、時間を潰すにはちょうど良いかも知れない。



流魂街の、何もかもが腐りきったあの街から入学してきたんだと語った恋次とは、
時期を同じくして入学していたルキアを通して知り合った。
護廷十三隊の一隊員として学校への視察を繰り返すうちに仲良くなった彼は
私にとって優秀な後輩であり、少しばかり大きすぎる弟であり、
彼が順調に卒業・入隊試験をパスして五番隊に配属されてからは気の合う同僚になった。


声にならない声を上げて座布団に顔を押し付けている恋次を見つめながら、
あれからまた背が伸びたな、とひっそり思う。
私だって女にしては背が高い方だけれど、その私より軽く頭一つ分は高い。

背丈はもちろんのこと、瞬発力や精神力、抜刀の速さ、さらには部下への指揮の飛ばし方まで。
かつて私が悠々と勝っていたもののほとんどが、
いつの間にか恋次に味方、もしくは同等に並ぶようになってしまった。

だから囲碁は、私が昔のように彼に勝つことが出来る残り少ない砦なのだ。


「あー…くそ。次こそはぜってぇ…!!」
「…そんなに悔しかったの?」
「うるせぇ」


他愛ない会話を交わしてケラケラ笑う。
こういうところは昔と変わらないんだけどなぁ、と
少しだけしんみりしながら開け放していた窓へ視線をやった。

今日の私は一体どうしたんだろう。
感傷的な言葉ばかり溢れてくる。久々の休みで気が緩んでいるのかも知れない。
それとも、じんわりと辺りの空気をオレンジ色に染め上げていく夕陽に、
あの過去の日々が懐かしくでもなったんだろうか。


「そういうのを負け犬の遠吠えっていうのよー」


だから、特に意識せず出てきた言葉は、そんな自分に対してのものだったのかも知れない。
そうでなければ、いまだ抗議の声を上げている恋次への軽い冗談のつもりだった。
そう、少なくとも、私にとっては。


「…、」


ふいに名前を呼ばれたその瞬間、何の前触れもなく腕を掴まれた。
あれ、と思う暇すらなく、ぐるりと回転する視界に数回瞬きをする。
その間にすべてが終わっていた。

引っ張られた瞬間に肘でもぶつけたらしい。
先程までの勝負の結果が、射し込む夕焼け色に染まった畳の上に転がっていく。
掴まれたままの指先に当たる冷たい石の感触と、鼻を掠める畳独特の匂い。
そして、反転した視界を遮る、深い緋色の髪の毛。


「……あの、恋次?」
「お前が遠吠えなんていうからだ」


いつ解けたのか、その長い髪で押し倒した私を外の世界から隔離して、
にやりと口の端を歪めた恋次は、それでもどこか切なそうに眉根を寄せた。
その表情は昔から見てきた、威勢の良い後輩のものではなく、
私を見つめる、ひとりの男のそれだった。



「俺は野良犬だからな。そう簡単には鳴いてやらねぇよ」





(そう、泣くのは最後で良い)










2005/11/08
離れた距離が当たり前だった女。
離れた距離を縮めたかった野良犬。