どっちが上で、どっちが下か。
どっちが右で、どっちが左か。
そんな当たり前の感覚すらも曖昧な場所に私は座っていた。

目を開けた、ような気がする。
確信が持てなかったのは辺りが瞼の裏のように真っ暗だったせいだ。
不思議な香りと冷たい空気が頬を撫でる。
しばらく待って、じわじわと闇に馴染んできた目に映ったのは
宙に浮かんだ火のない蝋燭に、無造作に積み重ねられた陶器の人形の残骸たち。


「起きたぁ? エクソシスト」


唐突に響いた声はぞっとするほど甘かった。
人の気配が近付くにつれて、部屋の奥から一つずつ灯される蝋燭の火が辺りを照らしていく。
最後の火が灯ると同時に、甘い声の持ち主らしい顔がぼうっと浮かび上がった。


「わ、やっぱ美人だねぇ〜。ティッキーが夢中になるのも無理ないかも」


そう目の前で甘ったるく笑ってみせたのは、短い髪の似合う可愛らしい少女だった。
見た目は普通の女の子。けれどどこか、得体の知れない何かを感じる。
それに、おそらく『ティキ』という名前。
少女が口走ったそれには名前には聞き覚えがあった。

…そうだ、確か。
ことあるごとに私の目の前に現れては、戯れの言葉を残して去っていく、あの男。

『まさか、ノア』

吐き出したはずの声は音にならず、代わりに荒い息遣いだけが辺りに響いた。
……まずい。声が、出ない。


? 良い名前じゃん、って呼んでもいーい?」


アハハっと楽しそうな声をあげて笑う姿は無邪気な少女でしかない。
しかしその手にはどう見ても私の団服と引きちぎられた銀ボタンがある。
神の使徒が、なんてザマだ。
自らの胸に掲げるはずの十字架を、あまつさえノアに奪われるなんて。


「ねぇ、聞いてくれるぅ?
 人間ってさぁ、アンタたちの言う神様の人形だと思うんだよねぇ。
 まさに掌の上で踊らされてるってやつ?」


まるで私の思考を読み取ったように、少女は私の膝元へ擦り寄ってきた。
滑るような指先で膝を撫でられる。
蹴り飛ばしてやろうとするが、困ったことに四肢の自由も利かない。


「アンタたちの言う神って薄情だよねェ。
 どんなに崇めてたって、いらないって思ったら糸を切っちゃうんだよぉ。
 操り人形は、死ぬしかないよねぇ」

無造作に放り投げられた団服が視界の端を舞って、人形の残骸の上に落ちた。
あれも持ち主に捨てられた人形。

…そして、今となっては、私も同じ。

意思を持っているというだけ、他はあのマリオネットたちと何も変わらない。
これではこの子供の言う通りだ。
足元に転がっているビー玉の眼のように、私もここから自分を捨てた神を見上げるのか。
頭の芯がクラクラする。この部屋の甘い匂いのせい?



「こっちへおいでよぉ、
 自分から糸を断ち切ってやりなよぉ。
 そうして、僕たちと同じ場所でこのくだらない世界の終わりを見るんだ」



甘い声に眩暈がした、気がした。
首に回されるあたたかい腕の感触が心地よかった。
ドアの開く音を遠くに聞いた。

ああ、あれは。
戯れの好きなあの男と、千年を生きたと言われる『時空を旅する錬金術師』?


「ねぇ、良いでしょお?」


甘く耳に吹き込まれたその声を引き金に、私の意識は堕ちていった。





055, 糸を切った 人形
真実をみた








2006/05/28
良いでしょお、僕がもらっても。
お前なぁ、俺があれだけ大事に…。
さっさと手を出さない方が悪いんだよ。
ウフフ、ティキぽんの負けデス☆