組み敷いたその顔はかなしいくらいに無表情だった。 心臓の音がやけにうるさい。きっと彼女がまとっている空気が静かすぎるせいだ。 鼓動の音に紛れて、かり、と小さな音がする。 軽く視線を動かすと、ひび割れた彼女の爪の先が乾いた地面を引っ掻いていた。 さっきまで刀を握っていた細い指。 滲んだ血と色味のない肌との対比にほんの一瞬だけ見惚れて、 けれどすぐに目線を正面へと戻す。 「…動かないで」 何でだろう。必要も無いのに、口を開いた。 「動かなかったら、苦しまないように殺してあげられる」 首元に突きつけた短刀の切っ先がゆるりと震える。 こんな状態になっても彼女は武将として、 そして奥州筆頭の妻として相応しい態度を保ち続けていた。 命乞いも泣き喚くこともしないで ただ静かに、瞬きすらせずに、俺の顔だけをじっと見ていた。 甲斐と奥州、どちらも天下を統一するのに王手をかけた戦だった。 それまでは同盟だって結んでいたし、何度か真田の旦那と一緒にご機嫌伺いへも行った。 歓迎してくれる伊達夫婦と他愛もないお喋りに花を咲かせて、 縁側で手合わせとは名ばかりの戯れに笑って。 嗚呼どうせならこんな関係がずっと続けば良いのに、なんて 自分らしくもないことを願ったりして。 それがどうして、こんなことになったんだろう。 誰に聞くわけでもなく、溜め息だけで思考を消した。 所詮、今は『乱世』。どんなに足掻いたところで何も変わらないのなら、 意識なんて殺しておいた方が良いに決まってる。 「…ねぇ、」 ふいに小さく甘い声が聞こえた。 思わずびくり、と手もとが狂いそうになる。 早く、早くこの女を殺してしまえ。もう一人の自分が耳元で怒鳴った。 「最期に一つだけ、良いかしら」 本来は軽やかな声が苦しそうに掠れる。 最期に、の部分がわずかに強調されていたのが嫌だった。 そう言わせている自分が憎らしかったと同時に、かなしかった。 「どうか、名前を呼んで。…謝罪はいらないから。 だからお願い…お願いよ、佐助。 そうすれば、私は懐かしい音の中で、穏やかに死ねる」 …どうして。 なんでそんな顔で、笑うの。 肩を押し付けて地面に組み敷いて刀を突きつけてる男なんかに。 その綺麗で美しい顔に血を浴びせるのは俺なのに。 「…、さん」 何度だって呼ぶ。呼んであげる。 さんさんさん 目がかすんだ。身体に力が入らない。 完全に思考が停止してしまう前に早く、はやく。 刀を振り上げる。彼女が静かに目を閉じた。 静寂が消えた空気の中、濡れた手のひらの感触に俺は泣いた。
藍葬
2007/01/29 どうせ叶わない恋だったけれど、それでも。 |