広く冷たいベッドの、その両端にそれぞれ横たわる二人に会話はなかった。






008,硝子の境界線






夢の住人になるには少し早い。かと言って、リビングで紅茶を片手に読書をするには少々遅い。
そんな曖昧な時刻。
白いシーツを背中にしてはいるものの、眠気はピクリともやって来ない。


冷たく張りつめた沈黙の中で、静かに身体を起こす。
絨毯の敷き詰められた床へと素足を下ろせば、
それに習うように隣のもベッドの上へ上半身を起こした。
『何処へ行くの』、そう聞かれれば、居間へ本を取りにと答えるはずだった。

しかし彼女は何も言わなかった。
それどころか、伏せた視線をこちらへ向けようともしなかった。


「…


結局、この沈黙を先に破ったのは自分の方。
普段より若干抑えた声音で名を紡げば、呼ばれた彼女はゆるゆると睫を持ち上げた。
彷徨っていた視線がようやくこちらを捕らえる。
正確には、先刻この腕に巻かれたばかりの、真新しい包帯を。

新品とさして変わらない其れには血すら滲んでいない。
唯一染みが残ってしまったコートは今ごろ洗濯機の中だろう。
もっとも、あれだけズタズタになっていれば
余程のことがない限りもう袖を通すこともないだろうが。


今までにない大怪我は彼女に平常心を、
そして不変の事実さえ忘れさせてしまったらしい。
大丈夫だと何度言い聞かせても無駄だった。だから、の好きにさせたまで。

どうして、と掠れた彼女の声がまた耳奥で聞こえた気がした。



シーツにゆるく皺を作っているの手へと腕を伸ばす。
どちらからともなく指が絡み、視線が交わった。
爪がお互いの皮膚を軽く擦る。


「…冷たい。氷みたい」
「大して変わらない。…それに、」


冷ややかな体温に眉根を寄せる彼女にそう答えながら、
捕らえた手首に唇を寄せて目を閉じる。


「こうしていれば俺の手も」


恥ずかしいのだろうか、ピアニスト顔負けの細く繊細な指先がほのかに色づく。
日頃から刀を扱う自分には余りにも不釣り合いな、この手。


と同じ温度になって」


彼女に触れる時間に比例して大きくなっていく、身体の奥で疼く熱。
それを氷を浮かべた理性で少しずつ冷ましていくように。


「いつか、この境目すらも分からなくなるかも知れない」


いまだに白い手首から離れようとしない自分の唇からこぼれ出たのは、そんな言葉。



「……それは私を、慰めようとでもしているの?」


長い沈黙のあと、ようやく口を開いた彼女の言葉は問いかけの形を取っていたものの、
疑問の響きを含んではいなかった。
確信を伴った、凛と張りつめた空気を震わせる声音。


「…別に、そんなことは」
「嘘」


縫い合わせたように離れない口から絞り出した答えは一瞬で否定された。
彼女の真剣な目は開いた口をあっけなく閉じさせてしまう。
怒っているのだろうか。悲しんでいるのだろうか。
手首に縋り付いた俺を振り払うこともせず、ただ静かに。
そっとまぶたを震わせて。

…らしくないことぐらい、自分だって分かっているのだ。
しかし、今現在こうして俺に言葉を選ばせているのは紛れもなく
悲しそうに目を伏せるであって。
おそらく彼女もそれを分かっているのだろう。
小さく項垂れて、「ごめんなさい、八つ当たりだわ」と呟いた。
それでも彼女を取り巻く空気は変わらない。


自分と彼女の間には目には見えない、それでいて圧倒的な存在感を放つ壁がある。
それは例えるなら一本の線であり、警告音であり、異質な空気なのだ。

それらは静かに自分たちの間を阻み、二人の温度さえも通してはくれない。



「…もし、もしもバージルと私の境目が無くなったとしたら
 貴方はずっと、ここに居てくれるの、」


ぎゅっと両手を握りしめて、はその場に崩れ落ちた。
相変わらず冷たいシーツに彼女の柔らかな金糸が散らばる。
掠めていた爪が抱き留めた手に食い込む。痛くは、なかった。


「行かないで」


頼りなげに伸ばされた腕に身を任せながら、このまま二人で溶けてしまえればと目を閉じた。










2005/05/31
初めてのDMCはバージル兄さんでした