「…眠れないの?」


そっと掛けられたやわらかい声に、闇に慣れた目を細める。
深夜、割り当てられた宿の部屋から抜け出て(同室のクラウドは珍しくよく眠っていた)
なんとなく向かったバルコニーには先客があった。


「…もか」
「実はね。月明かりのせいか、目が冴えてしまって」


良かったらご一緒しない?
そう手招きされ、断る理由もないヴィンセントは誘われるまま彼女へ歩み寄る。
備え付けの白い椅子に腰を下ろすと、は慣れた手つきでホットミルクを注いで彼に勧めた。
うすい湯気を漂わせるカップに蜂蜜を少しだけ垂らすことも忘れずに。
そういえば、とスプーンから垂れる蜂蜜を見ながらヴィンセントは思い返す。
以前コーヒーを淹れてもらったときも自分のカップには角砂糖がひとつ入っていた。
彼女はなぜ、自分が甘いものが嫌いではないことを知っているのだろう。

礼を言って受け取ったホットミルクを飲みながらバルコニーの柵の外を見やる。
周囲は当たり前のように真っ暗で、音もなく、静かだった。


ふいには今まで何をしていたのだろう、と考える。
ちらりと盗み見た彼女のホットミルクからはもう湯気は立っていなかった。
どれほどの時間をここで過ごしたのだろう。
真夜中に、たった一人で冷たい夜風に当たりながら、何を思っていたのだろう、と。


他人への干渉を嫌う自分がなぜこんなにのことを気にしているのか、
ヴィンセントは自分自身でもよく分からなかった。
戸惑う自分をよそに、思考は勝手に回転を続ける。
しかしこの感覚には覚えがあった。最近ではない。そう、もっと昔に。


「静かな夜ね」
「……ああ」


ああ、本当に。
本当に、しずかな夜。
喧噪を嫌う自分にとって、この静寂はむしろ居心地が良いといえるものだったが、
ここまで静かだと逆に意識がいらぬ方にまで向かってしまう。

静かな時間は、過去を振り返る瞬間を連れてきてしまうから。


「似ているかもしれないわね」
「…何がだ?」
「私と、貴方が」


呟きながらカップの縁をなぞる指が月光にぼんやりと光る。
彼女の目元がほんの一瞬だけ煌めいたことを、常人より遙かに優れた彼の目は見逃さなかった。


「どんなに現実に溶けこもうとしても、結局は過去に縛られている」


潤んだ目を誤魔化すように瞬きをしたは、
「ずいぶん遅くなっちゃったね。おやすみなさい」とかすかに微笑んで席を立った。
女性特有の細く丸みを帯びたその背中。
向けられた背に、思わず手を伸ばしそうになって、止めた。



彼女と言葉を交わすたび、視線を交えるたびに
胸の中で己の存在を主張し続けるこの感情の名を、自分はきっと知ってはいけない。
もしもそれに気付いてしまったら、
彼女は何のために、自分は何のために此処に存在しているというのだ。





064, だから、
気付かないふり






2005/09/25
ヴィンセントは新しい恋をしても良いと思う。
だけれど、ルクレツィアを忘れないで欲しいと思うのも事実で…
DCの予告ムービーを見てからホントそう思います。