水底の侵食




「くだらねぇ」


先ほど部下の一人が持ってきた報告書に対する第一声がこうだった。
舌打ちと悪態を吐きながら書類の束をデスクの上に投げ飛ばす。
書類を束ねていた金属クリップが机を叩いた、その予想以上の大きな音に驚いたのか、
後ろに控えていたが一瞬びくりと肩を揺らす。
その様子を横目に見たあと、視線だけで彼女を呼んで、腰に腕を回して抱き寄せた。
突然の行為にも慣れたのか、少し顔を赤くしながらも大人しく膝の上に収まった
散らばった報告書の中の一枚をじっと見ている。


「…これがもう一人のボンゴレ十代目候補…」
「見ろよ、この甘ったりぃ面。反吐が出る」
「性格も、ずいぶん温厚な方のようですね」
「ハッ。優しさに何ができるんだ」


鼻で笑い飛ばした言葉に、がわずかに反応した。
小さく身じろいだかと思うと、俺と向かい合うように背筋を伸ばして口を開く。


「…ザンザス様」


呼ばれる名前に視線を合わせてやる。
すぐ目の前にある、こちらをじっと見つめる深い水底の両目。


「優しさは時に、脅威になりますよ」


―――瞬間。その眼に、意識が溺れた。


瞬きを忘れてしまったような眼球の中に、目を見開いている自分の姿を見た。
その深い色の中にどこまでも落ちていきそうな錯覚を覚える。
酸欠にも似た息苦しさに喉が鳴り、足元がふらついた。

お前は何を思ってそんなことを言った?

口にしようとしたが出来なかった。いや、正確にはしなかった。
これ以上溺れることがないように唇で唇を塞ぐ。
いささか乱暴に顎を掴んだせいか、苦しげに身を捩ってシャツに縋りついたは、
それでも静かに目を閉じて口付けを受けた。


閉ざされた目。だが、なぜだ。

あの瞬間の息苦しさが、足元のふらつきが、まだ消えない。





侵食は止まらない





長いキスの間に報告書の写真は握りつぶしてやった。
十代目候補だと? こんなガキが笑わせやがる。
しかし一番笑ってしまうのは、
その甘ったるい顔の裏に隠されているかも知れない可能性を放っておけない自分自身だ。






2007/08/14
人間味のあるボスが愛おしい。